自分を「交換可能な道具」と見ていた — 『明日死ぬ 幸福の王子』が変えたチームづくりの前提

個人開発アプリミチナリの読書記録機能を使いながら、飲茶さんの『明日死ぬ 幸福の王子』を読み終えました。ハイデガーの『存在と時間』を物語の形で解きほぐした一冊です。読了して残ったのは哲学の知識ではなく、自分がチームの中で人をどう見てきたのかという、落ち着かない問いでした。

「自分以外はすべて道具」という見方

本書の軸になるのは、ハイデガーの「道具連関」という考え方です。ハンマーは釘があって初めて道具として意味を持ち、釘は「住む」という目的に連なる建築という関係の中で意味を持つ。道具は単体では存在できず、目的と他の道具との関わりの中でだけ存在している、という見方です。

そしてこの見方は、突き詰めると人にも及びます。仕事で関わる相手はたしかに人間ですが、「仕事を進めるため」という目的があって関わっている以上、私はその人を道具連関の一部として見ている。「なんのために」を問い続けると、目的の根源は必ず自分自身に行き着く。この整理に、私は読みながら素直に頷けませんでした。頷けないのに、反論もできなかった、という感覚です。

怖いのは、その視線を自分に向けたとき

本当に効いたのはその次でした。人は社会の歯車になるとき、自分自身までも道具連関の中の一つの道具として見てしまう。そして道具は、目的を果たせなくなれば交換されます。壊れたスプーンを新しいスプーンに取り替えるのと同じように。

自分が何者かを問われたとき、職業や役職で答えてしまう人は多いはずです。私もそうでした。それは他者からの視線に合わせて、自分を「目的を果たすための道具」として定義しているということでもあります。本書はこれを「非本来的な生き方」と呼びます。交換可能な道具のような生き方であり、自分の人生とは何だったのかを問わない生き方です。

死の「固有性」という切り札

では、他者からの視線からどう抜け出すのか。本書が挙げる唯一の切り札が「死」でした。死には5つの特徴があると整理されています。誰にでも確実に訪れる確実性、いつどう訪れるかわからない無規定性、死を追い越した先に可能性は存在しない追い越し不可性、あらゆる関係が失われる没交渉性、そして交換不可能な自分にしか起きない固有性です。

最後の固有性が決定的でした。仕事は代わりがきき、役職も引き継げますが、自分の死だけは誰にも代わってもらえません。死を意識することは暗い話ではなく、自分が交換可能な道具ではないと確認する作業なのだと受け取りました。

有限だからこそ、かけがえがない

人間は有限だからこそ、自分をかけがえのない存在だと認識できる。無限に時間と可能性があるなら、かけがえのなさは生まれません。時間についても同じで、一定の速さで無限に流れる直線としてではなく、自分にとっての有限な持ち時間として捉え直すと重みが変わります。以前時間の解像度を上げるという考え方として書いたことと、ちょうど重なりました。

ただし本書は、ここで止まることを許しません。自分にだけ有限性を見出し、他者やものは交換可能なものとして無限に扱う。それもまた非本来的な生き方だと言います。他者にも同じ有限性を見出し、かけがえのない存在として認めること。そこまで含めて、ようやく本来的な生き方になる。

「ここにいていいんだ」の、次にあるもの

私はいま、途中からリーダーとしてアサインされたチームを持っています。メンバー同士の接点が少なく、それぞれが孤立しがちな状態です。だからこそ心理的安全性の4段階で書いた実装を進めながら、「ここにいていいんだ」と思えるチームを目標にしてきました。

本書を読んで感じたのは、「ここにいていいんだ」だけでは足りないということです。それは居場所が確保された状態であって、素直な気持ちを言えるようになった先で、言いたいことだけを言い合う関係に傾く危うさがあります。必要なのは、お互いを有限でかけがえのない存在として尊重したうえで、それぞれが達成したい目標に向けて助け合える関係でした。心理的安全性は出発点であって、ゴールではなかったのだと思います。

おわりに

哲学書を読んで得たものが「死を意識しよう」という標語だけなら、たぶん来週には忘れています。私に残ったのは、明日の1on1で相手をどう見るかという、具体的な視線の置き方でした。目の前のメンバーも私と同じように有限で、交換できない。それを前提に置けるかどうかで、同じ30分の使い方は変わるはずです。

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